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宮崎政三(元技術顧問)
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昨年1992年は会社創立50周年に当たる。昭和17(1942)年に鉄道の3ホラつまり渡辺貫(ホラ貫),桑原弥寿堆(ホラ弥寿),立花次郎(ホラ次郎)のトップを走る渡辺貫さんが、鉄道省を退職され、日本物理探鑛(株)を創立された。それより5年前の昭和12年に鉄道での直接の上司であった渡辺貫さんの命を受けて私は関門海底トンネルの現場で勤務することになりました。
昭和11年に下関改良事務所主管で実施された関門トンネル海底部の弾性波探査法は,当時東京大学地震研究所の研究科目の一つで、専門技術者も地震研究所に集まっていたので同所の力を借りることになり、那須信治技師,萩原尊礼技手,俵俊一郎技手など5名の各位を臨時に嘱託としました。私が現場に居た昭和12年以降は鉄道技術研究所が担当し,神田祐太郎さんを始め,梶田善,長谷川重則さん等の担当者が下関に来られました。
当時の弾性波探査の震動源は,主としてダイナマイトによる発破を利用しました。そこで弾探部隊は有力隊員の発案で夕食の肴を発破で捕らえようと計画した。地元の通人の説に従えば、彦島江ノ浦付近には魚が多く集まっているということが判った。ところがここは関門鉄道トンネル現場事務所の加納所長(トンネルの大家で、後に熊谷組副社長,トンネル委員会幹事長)の釣場とのことであった。そこでこっそり極秘で1本120gのダイナマイト5本をかけたところ体長1mを超すすずきが浮上し、早速現場の寮で開かれた夕食の宴では、すずきの刺身で弾探隊一同は満腹したとのことであった。
結局関門海底トンネルの弾性波探査は大成功を収め、将来弾探発展の基礎が築かれた。
関門海底トンネル弾探の後は、昭和15年東京〜下関間新幹線が著工され、これをさらに海峡を渡って釜山まで延長する必要性が強調され、対馬海峡弾性波探査が昭和16年4月から実施された。この計画は渡辺貫さんが総括技師であった鉄道省建設局計画課で立案され、調査の実施は熊本工事事務所が担当し,調査の基地は佐賀県の呼子に定められた。しかし,日本海軍の潜水艦が海峡で沈没したのを機に、弾探は中止になった。

写真1 対馬海峡弾性波探査技術者一行
昭和16年4月 呼子町 田原屋旅館前
写真1は昭和16年4月の神田祐太郎氏を始めとする対馬海峡弾探技術者である。想えばこの年の12月8日から第二次世界大戦に入ったが、海峡弾性波探査の手ごたえは十分だったので、この翌年渡辺貫さんはこれらの技術者を率いて会社創立に踏み切られたと思われます。

写真2 関門海底トンネル弾性波探査状況
渡辺 貫 初代社長 (左から2番目)
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戦後は、敗戦翌年の昭和21年2月に、国鉄施設局長室で青函トンネル調査法の打合せ会議が開かれ、同年4月から先に述べたホラ弥寿つまり桑原弥寿堆さんを先頭に陸上地質踏査,陸上ボーリング適地の下見,海上弾性波探査計画などが行われました。昭和23年6月に国鉄札幌地方施設部(後の札幌工事局)が海上弾性波探査を発注し、これを受けて日本物理探鑛(株)は青函トンネルルートの海岸周辺部の海底調査作業を実施し、8月に終了しました。
一方、竜飛側は盛岡地方施設部(後の盛岡工事局)によって陸上部の弾性波探査とボーリングが実施された。この陸上部の弾探作業は日本物理探鑛(株)が行い、当時人跡未踏の蝮の多い草薮で実施されたため印象に残る蝮事件が起こりました。この作業の時、わが社の大野武彦技術員が作業のため草むらに飛び込んで蝮に足を喰いつかれて重体になり、入院したことが話の種になっています。現地作業中の出来事では珍しくない話が、かなり有名になったのは、余程毒の強い蝮のためか、治療が大変で後始末に世話が焼けたためと思われます。今では観光地として夏場は人気を集めている青函トンネル工事基地の竜飛岬も、かつては人跡未踏の北のはずれであったことが分かります。
昭和24〜27(1949〜1952)年度に亘る進駐軍GHQの指令による青函トンネル調査の一時停止の後,昭和28年度から吉岡,竜飛間津軽海峡海底郡の本格的な海上弾性波探査が実施され,昭和29年度は海峡中央部と、トンネル予定線方向の断層を判定するための横断測線などを主にして調査が実施されました。昭和30年には竜飛沖5kmの区間の海上弾性波探査が実施されました。これらの3箇年に亘る探査の内容と成果については工事誌で詳しく記されておりますので,ここでは弾性波探査の震源として使用されるダイナマイトの海中発破に直接関係のある「鯛の巣」の話を紹介します。
この当時漁業組合はまだ補償問題について余りうるさくなかったようで、海中発振にはダイナマイトを使用しました。ダイナマイトは一回の発破について22.5kg(1箱)を、厚さ1mmのゴム袋につめて爆破させました。このとき付近の漁港から漁船が集まって来ましたが、竜飛沖付近は鯛の巣と呼ばれている鯛の魚場なので、発破で鯛が浮くことを予期して漁船が集まったようです。鯛は体長50cm以上の大物が目立ち、ダイナマイト22.5kgの箱に入れると尾がはみ出すような大物が多数とれたといわれています。漁業補償問題が厳しくなっている現在から考えれば誠に夢のような話です。
海底弾性波探査の震源にダイナマイトが使われたのは、昭和30年の青函トンネル調査の頃が最後で、昭和40年代に行われた新関門トンネルの調査では、漁業補償の関係で全く利用できなくなりました。昭和51年,52年に実施した紀淡海峡の海底ケーブルのルート調査にはリフラフォン(海上屈折波)方式による調査が開発され、震源にはエアガン,ウォーターガンなどが用いられ,魚が浮いてくるといったことはなくなりました。その後豊予海峡と紀淡海峡の調査を実施しました。
海底トンネルについて広く世界を見れば、アジア〜ヨーロッパのボスポラス海峡(2km)に始まりイタリー〜シシリー島のメッシナ海峡(3km),ジャワ〜スマトラのスンダ海峡(10km),ヨーロッパ〜アフリカのジブラルタル海峡(2km),対馬〜釜山の大韓海峡(55km)など当社で調査・計画に参画した世紀の国際海底プロジェクトもいくつかが挙げられており、これらのトンネルは旅客・貨物の物流を大きく変える効果ばかりでなくトンネルに共同敷設した光ファイバー通信は増加する将来の通信需要を効果的にまかない世界的な通信時代に対応するとともに超電導電力輸送システムは夜間余剰電力を各国に有効配分するなど国際エネルギー効率の向上に多大の貢献をするものと展望されております。
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