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日本物理探鑛株式会社 創立80周年

弊社は2022年12月7日で創立80周年を迎えました。これもひとえに、
皆様方のおかげであると感謝いたしております。
既往文献より弊社の歴史を振り返ってみたいと思います。

曙(会社創立)

当社が創立されたのは昭和17(1942)年12月7日でした。 太平洋戦争開戦からはや1年が経過しようとしていた、まさに戦時中なります。 開戦当初は日本軍の快進撃が続き、日本国内は戦勝で湧いていましたが、 昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦に敗れて以後、戦局は混とんとしていました。 南太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島周辺では激戦が続き、11月には、 第三次ソロモン海戦で戦艦比叡、霧島の2艦が撃沈。戦艦では初めての損失でありました。 戦艦比叡は、天皇陛下の御召艦となった由緒ある船だけに、先行き大きな不安をのぞかせる出来事でした。

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比叡(時事ドットコムより引用)

初代社長渡邊は、鉄道省在職中の昭和14(1939)年、東京帝国大学地震研究所や鉄道省の仲間とともに、 自宅に「地質工学研究所」をつくり、国内外の鉱床資源探査や工場敷地の岩盤調査などを受注していました。 在職中に調査費などの受け取りをどうしていたのかは不明ですが、かなりの依頼があったようです。 そのため「起業」といっても渡邊が社長に、「地質工学研究所」の専属職員らが社員となっただけで業務内容は同じだったようです。 創業時のメンバーは渡邊の他、事務職2名、技術職7名程度の陣容でした。 登記上の本社所在地は当時の銀座西8-8(現在の銀座8丁目2-12、山手線を挟んで東京電力(株)本社の真向かい) にあった華僑会館4Fの一室でした。ここはもともと「地質工学研究所」の連絡所が置かれていたところでした。

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写真1(当時の弾性波探査状況)

会社設立後の記念すべき最初の仕事は朝鮮半島菊田で実施した銅を対象とした弾性波探査と電気探査でした。 その他、日本国内の資源調査、大陸横断鉄道のトンネル調査にと忙しい日々を送っていたようです。 昭和19(1944)年になると東京では空襲警報が発令されるようになり、大陸への渡航も難しくなっていましたが、 春先より実施された華中鉄道(中華民国も出資した民間会社)発注の「大東亜共栄圏」構築の一環として 計画された揚子江下のトンネル調査は、朝日新聞にも取り上げられました。インタビューに答えた服部保正は、 調査に参加した神田祐太郎とともに昭和の終わりまで会社を支え、日本大学文理学部応用地学科の物理探査法 ならびに物理探査法実習の講師も務めていました。政府関係者として参加していた鉄道省地質技官の宮崎政三は、 後に当社に入社し、鉄道総合技術研究所、鉄道運輸機構とのパイプ役として大いに活躍しました。

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写真2(当時の弾性波探査状況)

昭和20(1945)年2月20日には米軍が硫黄島に上陸、3月10日には東京の下町への焼夷弾爆撃(東京大空襲)、 5月24日には渡邊社長宅(現機械開発部の北隣の高台)が戦火で焼失し門柱のみが残りました。 6月末には沖縄での日本軍の組織的な戦闘は終了し、いよいよ連合軍の日本上陸が危ぶまれる中、 当社は8月3日より利根川の弾性波探査を始めています。創業から終戦を迎えるまで、少人数で国内調査は勿論、 中国大陸や朝鮮半島まで広範囲に業務をこなした我が社は果たして儲かったのでしょうか。 残念ながら創業~昭和19年の財務諸表は残されていません。残されている最古の決算書(昭和20年度)には、 前期からの繰越損失が計上されていますので、それほど順調な経営状態ではなかったのかもしれません。 こうして終戦の日を迎えます。