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日本物理探鑛株式会社 創立80周年

弊社は2022年12月7日で創立80周年を迎えました。これもひとえに、
皆様方のおかげであると感謝いたしております。
既往文献より弊社の歴史を振り返ってみたいと思います。

夜明け前(2)

小倉駅を出発したのぞみ号東京行きは、銀河鉄道999のメロディーに送られゆっくりとプラットホームを離れた。 自由席でも最高の乗り心地である。さすが世界に誇る新幹線である。しばらくすると、徐々に下り坂となり、 関門トンネルにさしかかった。暗闇の中を通過すること5分弱で本州側に到達する。あっという間の出来事である。

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写真1(近年の関門海峡)

今回は海底トンネルのお話としましょう。 ここ関門海峡では、今からさかのぼること86年前、海底弾性波探査が実施されました。 日中事変直前の昭和11(1936)年に、鉄道省下関改良事務所主管で実施された関門トンネル海底部の弾性波探査は、 当時、東京大学地震研究所の研究科目の一つでもあり、専門技術者も東京帝国大学地震研究所に集まっていました。 専門技術者には、那須信治技師,萩原尊礼技手,俵俊一郎技手などいずれも地震学では著名な研究者が名を連らね、 彼らを臨時に嘱託として採用し調査を実施しました。今に思えば、大変豪華なメンバーです。

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   写真2(地震計を組み立て中の調査メンバー)

調査は、図に示すようにダイナマイトを海底に沈めて爆発させることで弾性波を発生させ、 両岸の観測点にて地震動を記録します。この間の連絡は無線電波が用いられました。 ちなみに、関門トンネルは3本あり、2本が鉄道トンネル、残り1本が道路トンネルです。 山陽新幹線の「新関門トンネル」は昭和49(1974)年に完成しました。

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図1(海底における爆発瞬間を無線電波によって陸岸に設置せる微動計に伝える装置)
「渡邊 貫、1937、物理地下探査法」による

当時は漁業補償問題が今のように厳しくなく、起震にダイナマイトを使用できましたが、 昭和40年代に実施された新関門トンネルの海底弾性波探査では、使用できなくなっていました。
関門海底トンネル弾性波探査の後は、昭和15年に年東京~下関間新線が着工され、 この後さらに、海峡を渡って釜山まで延長する必要性が強調されていました。 そこで、朝鮮海峡弾性波探査が昭和16(1941)年4月から実施されることとなりました。

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写真3(関門海底トンネル弾性波探査実施状況)

この計画は渡辺貫が総括技師であった鉄道省建設局計画課で立案され、調査の実施は鉄道省熊本工事事務所が担当しました。 調査の基地は佐賀県の呼子に定められました。「烏賊」で有名なところです。そこには、初代社長である渡邊貫をはじめ、 その後当社の社員となる宮崎政三、神田祐太郎、長谷川重則、梶田善等当社の礎を築いたメンバーも多く参加していました。 しかし、旧日本海軍の潜水艦が朝鮮海峡で沈没したのを機に、朝鮮海峡弾性波探査は中止となってしまったのです。

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写真4 朝鮮海峡弾性波探査メンバー 昭和16(1941)年呼子町 旅館前にて
(前列右側から3人目神田祐太郎、5人目梶田善、後列右側から3人目長谷川重則)

その後、渡辺貫は鉄道省を退職し、昭和17(1942)年12月に日本物理探鑛(株)を創立します。
時を同じくして、渡辺貫著「海底トンネル」が電通出版部より出版されました。

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